『血の季節』小泉喜美子

血の季節

 2014年版「このミステリーがすごい!」の「復刊希望! 幻の名作ベストテン」企画で第2位を獲得したホラー・ミステリ。2016年に復刊された時、購入だけはしておいた作品です。意外な良作でした。(※この後、一部ネタバレ要素がありますので、未読の方はご注意ください)。

 昭和十二年。父が事業に失敗し、下町の商業地から山の手の閑静な住宅街に引越した「ぼく」は、新しい小学校に馴染めず鬱屈した日々を送っていた。ある日「ぼく」は、近所の公使館に住む、外国人の少年とその妹と知り合う。この少年の戦前から、昭和二十年の大空襲の夜までの思い出と、現在(昭和五十年)の青山で起こった幼女殺人事件の捜査が、交錯しながら描かれていく。


 まあ、何といいますか… 帯がネタバレしすぎですね。

「吸血鬼+サイコパス+警察小説。彼女はもう、この時すべてやっていた」恩田陸

 これが吸血鬼譚であることは、読み始めてしばらくすれば誰でも気づくことですが、いくら何でも帯でバラすのは早すぎです(笑)。作者自身によるあとがきには「日本では比較的馴染みのうすい世界で、むしろ、クリストファー・リー主演の怪奇映画によるイメージのほうが強いのでしょうが」とあるので、この頃(1982年刊行)としては珍しい題材だったのかと思えば、調べてみるとそうでもないですね。SFの世界では1971年に半村良の『石の血脈』があり、萩尾望都の『ポーの一族』の連載が始まったのは1972年から。他にも短編ならいくらでも例があり、むしろ日本の吸血鬼ジャンル花盛りの時代と言っていい。これには何か原因があったんでしょうか?
 そういえば『ゲゲゲの鬼太郎(墓場鬼太郎)』の第一次ブームもこの頃ですね。むしろ鬼太郎がこのブームの発端だったりして…(私の勝手な想像ですが)。

 後に小野不由美の『屍鬼』という超大作のあるこのジャンルとしては、この作品はむしろ小品であり、戦前の東京の一時期だけを舞台にしたミクロな作品と言っていい。しかし、この作品にとってはこのミクロな視点こそがむしろ長所であり、最大のウリだと思います。
 公使館に住む金髪の少年少女と日本人の少年の交流。舞台が現代ならむしろ微笑ましいシチュエーションだが、時代設定が戦前から戦中の昭和十二年から二十年となるだけで、いつ崩壊しても不思議はない不穏な空気が漂う。日本における吸血鬼譚の舞台としてこの時代を選んだのはまさに慧眼だと思います。

(中略)たとえば、全都が焔と灰に包まれつづけていたかと思われる昭和二十年春の東京でも、六代目尾上菊五郎は一座を率いて新橋演舞場において敢然と歌舞伎芝居を公演し、帝国ホテルの地下ルームではシャンペンが抜かれ、カクテルが供され、秘密の出席者たちが大舞踏会を開催していたのでした——。
 そういえば、つい数日前にもKとぼくだって文学座の芝居を見物しに行っていたではありませんか。(本文より)

 作者の小泉喜美子は1934年の生まれで、あとがきには「私もまた、昭和二十年春の東京大空襲の被災者なのです」とある。この時代の空気を覚えているギリギリの年代である。これより年下の作家だと、戦争や空襲は想像になってしまう。そのせいだろうか、何気ない部分に、ハッとするようなリアリティを感じさせる文章が出現して驚かされる。

 すでにして、青山通りには火が走っていました。文字通り、火が渦を巻いて横に走るのです。風がことのほか激しくなっていたせいもあり、その有様はまことに火焰地獄、灼熱地獄そのままでありました。火勢が一段と上がるたびにその明かりに照らし出されて点々と見えた黒いものは、早くも通りに数を増しはじめていた焼死体の群れだったのであります……。(本文より)

『弁護側の証人』の小泉喜美子の作品であるせいか、サプライズのあるエンディングを求められて、期待はずれだったという人もいるようです。でもなぁ… サプライズ・エンディングってそんなに必要ですか? あいかわらず本屋に行くと「意外な結末」とか「先読みできない」とか「ラスト◯◯行の…」という煽り文句が並んでいますが、それもそろそろ限界に来ているのでは。
 この作品の最終章も、ある種のどんでん返しと読めなくはないけど… 何でもかんでもそういう読み方をするのは、むしろ作品にとって不幸なことではないかと思う。むしろこれは、全編に漂う不穏な空気を味わう作品。それで十分です。



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