『99%の誘拐』(TVドラマ版)&『ミステリと言う勿れ』

「99%の誘拐」ドラマ版

『99%の誘拐』(TVドラマ版)
 先日のブログで後述しますと書いた、『99%の誘拐』のTVドラマ版の話です。
 この映像化は、そもそも写真すら見たことがない人が多いと思われるので、まずは場面写真をいくつかご覧ください。

 データを検索すると、このドラマは1992年3月24日に火曜サスペンス劇場枠で放送されている。脚本は佐伯俊道、監督は一倉治雄。これは『あぶない刑事』の演出をやっていた人ですね。生駒慎吾役は伊原剛志、間宮冨士夫役は緒形拳

「99%の誘拐」ドラマ版

 こうして場面写真を並べてみると分かってもらえると思うが、実はこのドラマ、原作にかなり忠実である。そしてキャストもイメージに合っている。間宮のおじさん役に緒形拳なんて、これ以上は望めないキャスティングだ。
「コンピュータを使った犯罪? そんなのよく分からないし、人間がやったことにしよう」。そんな改変が普通にありえた時代に、ほぼ原作通りのストーリーはむしろ珍しい。

「99%の誘拐」ドラマ版

 ではドラマとして面白いのかというと、それについては微妙。ほぼ全編コンピュータの指示によって進められる物語に、映像的な見せ場をどう用意するか、その方針が定まらないままに終わってしまった。前回のブログで書いた、犯人自身が身代金の運搬者となり、被害者の一人を演じる演劇的趣向、そのへんに突破口があった気がするのだが… 原作にはないマシントラブルを起こしてみても良かったかもしれない。トラブルを回避して、いかにして予定どおりのシナリオを進めるか、そこにサスペンスを持たせるストーリー展開になっていれば…

 現代でもそうだけれど、漫画や小説の映像化で失敗しているものはキービジュアルを見た時点ですでにおかしいんだよね。そのキャスティングはないだろうと思わせたり、衣装や髪型が異様に似合っていなかったりする。その点、このドラマはビジュアル面ではかなり原作のイメージを再現できているだけに、惜しかったなぁと思ってしまうのです。


ミステリと言う勿れ

『ミステリと言う勿れ』
 時代がまったく違うのだが、ドラマの話題が出たついでに、最近TVドラマの評判がいい『ミステリと言う勿れ』についての感想を少し。

 このドラマも、菅田将暉が演じる漫画の主人公=久能 整(くのう ととのう)のキービジュアルを見た時点で、かなり寄せてきたなぁと思った。特徴的なモジャモジャ頭があるため似せやすいとは思うが、キャスティングで失敗していると、この時点で髪型がまったく似合っていなかったりするものだ。

 第一回を見た感想としては、(誰もが思ったと思うが)漫画の整よりも少々キツめの印象を受けた。ただドラマは別物と考えれば十分に許容範囲。今後も、原作を大きく逸脱することがなければ楽しめそうな気がする。


 ここから先は原作についての感想だが、一般的なミステリファンは、この原作をミステリだと思って読んでいるのだろうか? それともミステリとはまた別物?

『ミステリと言う勿れ』というタイトルについても様々な考察があるが、私はこのタイトルは作者の照れ隠しだと思っている。ただ、通常のミステリとは若干違う感触があることもまた事実。主人公の整の語る「世間の一般常識に対する疑問」がその感触の原因だという意見は多い。

 確かに世間の一般常識に対する問いかけは描かれている。だがそれはそれで主人公の個人的な見解であったり、この漫画の作者の一面的な見方であって、意外にリベラルな立場からの意見ではないようにも思える。作中の言葉を借りれば「整にとっての真実」「作者にとっての真実」だろうか。

 なのに整が正論正解を語っているように聞こえるのは、反論する人間を作者が用意していないからではないか。あらかじめ予想される反論に対してはその答えが準備されているが、主人公とはまた違う意見を持つ人間は、これまでほとんど描かれていない気がする。

「整くん。その理屈だと 人のクローンもOKってことになるけど」
「OKなのかも でも進んでいない(中略)ということは 多くの人がそれはまずいと思ってるということ 自分たちにとって 危険だと思ったら 止める道を選ぶのも また自然なことです」(『ミステリと言う勿れ』第二巻より)

 私個人としてはこの漫画は、「日常のミステリの方法論」を殺人事件に持ち込んだ作品ではないかと思っている。

 もともと、本格ミステリとは一種の思考シュミュレーションである。残された手がかりからどのような推測を導き出せるかを競うゲーム。日常系のミステリなら、それが正解であれ不正解であれ、ゲームを楽しんだら「ハイ終わり」でかまわないが、ことが殺人事件ではそれでは困る。誰かを殺人犯と認定するなら、そこには明確な物的証拠が必要になる。

 もっとも本格ミステリの世界では、科学捜査による物証というものはあまり好まれないのだが、この『ミステリと言う勿れ』においては物証がさらに少なく、その多くは解釈次第でどうとも取れるような事象の積み重ねである。だから解決には第三者の助けが必要になる。「バスジャックの事件」や「広島の遺産相続の事件」では、軽く押すだけで犯人のほうから自白してくれたし、「爆弾犯の事件」や「焼肉屋の事件」では、最後は警察組織が動いて解決してくれた…

 それを批判しているわけではない。これがミステリならそれは弱点だが、「ミステリとは似て異なるもの」であれば欠点でもなんでもない。そもそもこの作品は、どうとでも解釈できる手がかりから、ひとつのストーリーを紡ぎ出す、そのお手並みを楽しむものなのかもしれない。

 一方で、この「解決には犯人や警察組織の保証が必要」という特徴は、本格ミステリの持つ宿命的な欠陥を思い出させる。つまり「探偵が出した結論が真に正しいものかどうか、読者には検証する手段がない」というアレである。違う言い方をすれば「探偵が犯人に騙されたまま物語が終わっても、読者はそれに気づけない」ということ。

 探偵が犯人に騙されたまま終わる事件。これをミステリ作家が書いたら非難だらけだろうが、あらかじめ「ミステリと言う勿れ」と名乗っている作品ならやれるのではないか。もともと物的証拠や論理的な帰結で決着する物語ではない。例えば「解決を保証するはずの犯人」が嘘をついたとしたら……??

 ま、私はこの原作をまだ全巻読んでいないので、私ごときが考えることなんて、この作者はとっくにやっているのかもしれないけれど…



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