『見たのは誰だ』大下宇陀児など

「本年度の作品」ではありませんが、今年読んだ中でいくつか感想を。

見たのは誰だ

『見たのは誰だ』大下宇陀児
 アプレ大学生の桐原進は、友人から、ある富豪が戦争中から死蔵している金塊を盗み出す計画を持ちかけられる。決行当日、屋敷に行ってみると主人とその孫、女中は友人の手ですでに殺されていた。約束が違うと言い争った末、友人を殺してしまった桐原には、四人殺しの容疑がかけられる…

 乱歩や正史と同時代の作家である大下宇陀児の昭和三十年の作品。当時としてはリアリズム派の作家らしく、登場人物の描写が丁寧で、ちゃんと感情移入できるように書かれてますね。いやホント、この時代の探偵小説って、殺人事件があった翌日に、家族が平気な顔してトランプ遊びしてるような作品がありますからね(笑)。こういう作風は貴重。

 真冬の雪の夜、なぜ現場の台所の窓が開いていたのか… などの細かい伏線をちゃんと拾ってゆく過程も面白いのですが、意外なことに最後は冒険活劇的なオチに着地してしまう。これは賛否両論でしょうね。個人的にはもう少し「ありえそうな結末」に落としてくれた方がこの作品には合っていたと思う。

 婦人評論家が、今の娘たちは、洋裁学校へ通い、新しい服を仕立てることは覚えるが、古い服を、別の服に仕立てなおす工夫を知らず、(中略)昔からの家庭婦人がやったように、着物をほどいて洗い張りしたり、染めなおしたりして、もういっぺん着るということをしないで、衣服は着られるだけ着てしまったあと捨てることが平気で、そのたびに、次の新しい服を、こしらえたり買ったりするのだ(本文より)

 つづいて心理学者が、いや、それは衣服と貞操だけでなく、すべての物についてだといった。そうしてその原因は、水素爆弾だのコバルト爆弾だののせいであろうと推論した。地球上の全生物は、ある独裁者の、またはある集団のちょっとした気まぐれで、一度に死滅することが可能である。この不安が常に人類につきまとっている。(中略)何もかも、惜しくない。衣服もそうだ。貞操もそうだ。命をすらも、大切にしたってしかたがない。だから、若い人たちは、極めて簡単に人を殺すし、また極めて簡単に自殺してしまう。(本文より)

 水素爆弾やコバルト爆弾の部分を書き換えたら、現代の文章として通用しそうです。
 まあ、どの世代も同じようなことを言われてきたということだよね(笑)。

東京夢幻図絵

『東京夢幻図絵』都筑道夫
 昭和ものというと、以前から読んでみたかった『東京夢幻図絵』も今年初めて読みました。

 私はこれをミステリ短篇集、もしくはSF集だと思って読み始めたのですが、あとがきを読むと「私は、犯罪小説風の情話を書こうとしたのである」と作者自身がはっきり書いてました。特に後半の作品にその傾向が強く、クライマックスは必ず男女のアレなので(笑)、最後にはちょっと飽きてくるのは否定できない。

 しかし、昭和初期の時代を肌で知っている作者の描写力には圧倒されます。

 店はガラス戸をあけると、客との応対や仮縫をする狭い板の間、カーテンのむこうは一段たかい畳敷で、大きな仕立台がおいてある。縫糸の束が天井から、いくつもさがっていたのはおぼえていますが、ミシンの記憶がないんです。ぜんぶ手縫いで、やってたんでしょうね。アイロンも電気じゃない。炭火を入れる大きなやつで、お湯のしゅんしゅんいう音が、耳に残っています。(「浪花ぶし大和亭」より)

 全部で十一篇が収められている中、ひとつ選べと言われたら、私は「白山下薄暮」かな。語り手が若い頃に見た縁日の思い出話から始まり、「おばけ」という大道芸の話へ。ある日、あまりに見事な「おばけ」の名人を見た語り手は、なんとかその男と話がしたいと願う。

 たいがい、どこの縁日でも、いちばんはじっこに出てました。ござだか板だか知りませんが、その上に黒いきれを張りつめて、ちょこなんと座っている。(中略)正坐している膝の前の方に、紙できりぬいた幽霊だとか、割箸でこさえた人形だとか、安物の湯のみ茶碗だとかを置いて、そいつを動かしてみせるんです。手を使わずにね。(中略)たねを買うと──ええ、一種の奇術ですから、見せるのは無料(ただ)で、たねを売るわけです。(「白山下薄暮」より)

 SF的な骨格だけを取り上げたら、単純なショートショートネタなのにも関わらず、わりとあからさまに張られた伏線が、膨大な量の風俗描写にまぎれて目くらましされてしまう… これは埋もれるには惜しい作品。書かれた時代が時代なので(昭和四十五〜四十八年)今となっては差別発言? と思うフレーズもあって、作品集自体の復刊は難しいのかもしれないが、せめて個々の作品が、どこかのアンソロジーに収録されて欲しいと思う。



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