『踊るひと』出久根達郎

odoruhito

『佃島ふたり書房』で有名な出久根達郎の短編集。そのわりには冷遇されてますね。Amazonでも読書メーターでも、この作品に関するレビューは1件ずつしか投稿されていない。しかも今は絶版のようだ。私だって、ネットで偶然この本の評判を聞き、その直後に古本屋の100円コーナーで見かけなければ、手に取ることはなかったかもしれない。しかし意外な良作。いやいや、直木賞作家に「意外」は失礼なのだが、意外にもミステリ風味が強い作品集。本業のミステリ作家が書いていたら、ちょっと評判になったかもしれない。

 表題作の「踊るひと」は、ある新聞記者が海外出張から帰って来ると、友人からの書簡が五通溜まっており、それを順番に繋げて読んでみると… というストーリー。「くっつく」は、中学時代から交換日記を続けている仲のよい女子高生ふたりが主人公。その交換日記が第三者に読まれており、一部を書き換えられているという疑惑が生じる。「むだぐち代参」は花屋で働く若い女性が、常連の老婦人から、自分の替わりに四国まで墓参りまで行って欲しいと頼まれる、しかし行ってみるとその墓は… という「日常のミステリ」にありそうな物語。他に「立ち枯れる」「花粉症」「夜の民話」「秘密の場所」、計七編が収録されている。


 先ほど「ミステリ風味が強い」と書いたが、これがミステリかどうかは実は怪しい。「どの料理にもカレー粉がかかっていて、カレーの味はするのだが、この料理の正体は本当にカレーなのか?」と疑ってしまう。そんな印象を受ける最大の理由は、本業のミステリ作家なら不要な要素として切り捨てる部分が、どの作品にも多々含まれているからではないかと思う。

 たとえば前出の「踊るひと」だが、五通の書簡の中に一通だけ消印が汚れて判読できない封筒があり、内容からして三番目だろうと判断して読むと、話がつながったという描写がある。凝り性のミステリ作家なら、この手紙を最初に配置するか、最後にするかで意味が変わるトリックを仕掛けるところだ。ところが、この要素が最後まで何の機能もしない。そもそも何のために配置されたのかが分からない。

「むだぐち代参」は、冒頭から「めっきり涼しくなりま大根」という駄洒落で始まる。これが主人公の口癖なのだが、こんな話し方をする若い女性なんて、現在はもちろん、昭和の時代から存在しない(笑)。この口癖が、本筋とは関係がないまま最後まで続く。

「立ち枯れる」は関東大震災の当日に生まれ「震助」と名付けられた老人がまず語り始めるが、震災当日の生まれだから、その記憶があるはずはない。途中からは話者が交替し、震災時の特例として、横浜の根岸刑務所から一時的に解放された男の体験談に変わる。それならなぜ、最初からこの男に語らせなかったのか。こんな感じで、何ともおかしな要素がどの作品にも盛り込まれており、しかも作品によって「おかしさ」の質が違う。


「スジナシ!」という深夜のTV番組があった。司会の笑福亭鶴瓶が、ゲストの俳優と台本なしの即興芝居を演じるバラエティーである。芝居の出来はゲストの力量によってさまざまで、鶴瓶のほうが明らかに「あるオチ」を狙って相手を誘導しているのに、相手役のカンが鈍くて伝わらず、会話が堂々巡りになってしまうこともあった。逆に、お互いの意思疎通が非常に上手くいって、見事に狙ったオチに着地した回もある。

 この番組で時々見かけたのが、当初ふたりは××という設定で始まるが、途中から「実は俺○○だったんだ」という告白が始まるパターン。ネタバレになるのでどの作品かは書けないが、この「スジナシ!」とそっくりの展開を見せる作品がこの短編集の中にある。最後の一編を読み終えて思ったのは、実はこの短編集は文章版の「スジナシ!」、いわば「ひとりスジナシ!」じゃないかということ。

 うん? それって作者が結末を考えずに書き始めた話とどこが違うんだ? と聞かれそうですね。そう言われると私もうまく説明できない。ただ言えるのは、作者がどう収拾をつけるか苦しんでいる作品と違い、こちらは作者が最後まで楽しそうなこと。酒の席で始めた作り話や怪談話を、聞き手の反応を見ながら軌道修正していく、あの呼吸だ。上の「スジナシ!」の例で言えば、見事狙ったオチに着地したのが「踊るひと」や「くっつく」であり、幻想オチに着地するしかなくなったのが「夜の民話」ではないか。

 個人的に好きな作品を挙げると「踊るひと」「立ち枯れる」「むだぐち代参」が私のベスト3。もうひとつ挙げるなら「夜の民話」。リドル・ストーリーのようなオチに最初戸惑ったが、しばらくするとじわじわ来る。
 ガチのミステリを期待するとツッコミどころ満載だが、風味が味わいたい人にはオススメの短編集だと思う。



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